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Lawrence Lessig, Free Culture (原文http://www.free-culture.cc/)
Introduction
はじめに 1903年12月17日。ほんの100秒間ではあったが、風の強いノースカロライナの浜辺でライト兄弟は空気よりも重い自走式の乗り物が飛べることを示してみせた。それは電撃的な瞬間で、その重要性は広く理解された。ほとんど瞬時に、有人飛行というこの新しい技術についての爆発的なまでの関心が沸き、イノベーターの群れがこの新技術を基礎にしてさらに発展させはじめた。
ライト兄弟が飛行機を発明した当時、アメリカ法では土地の所有権は自分の土地の地表のみならず、地球の中心にいたるまでの地下にある全て、そして、上空の空間についても、「無制限の上方に」までおよぶとされていた。土地についての権利が天空にまでおよぶという発想をどのように解釈したらよいのか、学者たちは長い間悩んできた。それは星々を所有しているという意味なのだろうか?空飛ぶ雁を不法侵入で捕まえることができるのだろうか?
そこに、飛行機というものが登場した。そして、その時初めてこのアメリカ法の法理――私たちの伝統の中に深く根ざし、過去の高名な法学者たちによって承認されてきたもの――が初めて現実の問題となったのである。仮に私の土地の所有権が天空にまで及ぶのなら、私の畑の上をユナイテッド航空が飛んで行った場合、どうなるのだろうか?私の土地から追い払う権利があるのか?デルタ航空と排他的ライセンス契約を結ぶことができるのか?こうした権利にいくらの値打ちがあるのか、オークションで決めてもいいのだろうか?
1945年に、こうした問題が連邦裁判所で問題となった。ノースカロライナで農業を営んでいたトーマス・リー・コーズビーとティニー・コーズビーは低空飛行する軍用機のせいでニワトリを失いはじめた(おびえたニワトリがニワトリ小屋の壁にぶつかって死んだ、ということのようである)ので、コーズビー夫妻は政府が不法侵入をしているとして、政府を訴えたのである。もちろん、 政府の飛行機がコーズビー夫妻の土地の表面に接触したことは一度もない。しかし、かのブラックストーン、ケントやコークが書いているように、土地の所有権が「無制限の上方に」までおよぶのだとすれば、政府は自分たちの土地に不法侵入している、ということになるのであり、だとすれば、コーズビー夫妻はそれをやめて欲しかったのである。
コーズビー夫妻の事件は最高裁で審理されることになった。それまでに、議会が航空路は公共のものであると宣言していた。しかし、本当に土地の所有権が天空にまで及ぶものであるとすれば、議会の宣言は補償なくして所有権を収用するものとして、憲法に反していた可能性があった。最高裁は、「コモン・ロー上、古くからの法理によれば、土地の所有権は宇宙の端にまで及ぶものである」ということを認めた。しかし、ダグラス判事は時代がかったこの法理を許さなかった。たった一つのパラグラフで、何百年もの間の物権法が消し去さられたのである。彼の判示によれば、
この法理は現代社会にはふさわしくない。空は議会の宣言した通り、公共のハイウェイなのである。もしそうでないとしたら、大陸横断の航空便を飛ばす度に、その運航者は無数の不法侵入訴訟の対象となることになってしまう。こうした考えは常識に反する。空域への権利を主張する訴訟を認めれば、航空路のハイウェイは詰まり、ハイウェイの管理と公共の利益の発展に深刻な障害が生まれ、公のみが正当な権利を認められるものを私的な所有権の対象へと転化させることになってしまう。
「こうした考えは常識に反する。」
法は通常、こういう仕組みで動いている。これほど突然に、そして性急にではないにしろ、結局はこういう風に動いているのである。つべこべ言わないのがダグラス判事の流儀だった。他の判事なら、ダグラス判事の「こうした考えは常識に反する」という一行と全く同じ結論に達するために、何ページも書き連ねたかもしれない。しかし、何ページもかかるか、たったの数語で済むのかは別にして、いずれにせよ法がその時代の技術に適合できるということは、私たちの法制度のような、コモン・ローシステムの特質である。そして法は適応する過程で、変化する。ある時代には岩のように頑丈なものであった考え方も、別の時代にはもろくも崩れ去るのである。
あるいは、こう言った方がいいかもしれない。少なくとも、変化に抗する側に誰か権力を持った者がいなければ、こういうふうになるのである。コーズビー夫妻たちは農家に過ぎなかった。彼らと同様、航空交通量の増加に不満を持った人たちは多くいたに違いないが(もっとも、壁に激突したニワトリはそれほど多くなかったことを願うばかりであるが。)、世界中のコーズビー夫妻と同じ立場の人々が一致団結し、空中の所有権についての新しい考え方とライト兄弟が生み出した技術を阻止しようとしても、それは大変難しいことであったはずである。ライト兄弟はミーム・プールに飛行機を産み落とし、そのアイディアはニワトリ小屋の中のウィルスのようにひろがって、コーズビー夫妻のような農家は、ライト兄弟が生み出した技術を前提とすれば「合理的であるようにみえる」状況に身を置くことになったのである。彼らも、好きなだけ死んだニワトリを片手に持って農場に立ち、拳をあげてこの新技術への不満を表明することはできる。あるいは、議員に苦情を言い、あるいは訴訟を起こすことさえできる。しかし、最終的には、他のみんなにとって「明らか」であるということの力――常識の力――が勝利するのである。彼らの「私的利益」が明白な公共の利益を打ち負かすということは、許されないのである。
エドウィン・ハワード・アームストロングは、忘れ去られたアメリカの天才発明家の一人である。彼がアメリカの発明家シーンに登場するのは、ちょうどトーマス・エジソンとアレクサンダー・グラハム・ベルといった巨人たちの直後である。しかし、無線技術の分野における彼の業績は、一人の発明家のものとしては、無線の最初の50年間の歴史における誰の業績よりも重要といってよいものである。彼は製本屋の見習いとして1831年に電磁誘導を発見したマイケル・ファラデーよりはよい教育を受けていた。しかし、彼は無線の世界の仕組みについて、ファラデーと同様の鋭い直感を持っていた。そして少なくとも三つの機会に、アームストロングは無線についての私たちの理解を前進させる、きわめて重要な技術を発明したのである。
1933年のクリスマスの次の日、アームストロングの最も重要な発明――FMラジオ――に対して、4つの特許が認められた。それまで、家庭のラジオは全て振幅変調(AM)ラジオであった。当時の専門家たちは、周波数変調(FM)ラジオは不可能であると言っていた。彼らの言っていたことは、狭い帯域のFMラジオについては正しかった。しかし、アームストロングは広い帯域の周波数変調ラジオが驚くべきほどに忠実に音を届けることができ、しかもトランスミッターの出力と雑音の低減をも実現できることを発見したのである。
1935年11月5日に、彼はこの技術をニューヨークのエンパイアー・ステート・ビルディングで開催された無線通信技術学会の場で披露した。彼はいくつものAMラジオ局がある中からラジオのダイヤルを調節して、自分で準備した17マイル向こうにあるラジオ局にあわせた。ラジオは死んだように完全に無音になり、そして突然、その部屋にいた誰もが電気的な装置からは聞いたこともないようなクリアな音質で、アナウンサーの声を発したのである:「こちら、ヨンカーズ、ニューヨークのアマチュアラジオ局、W2AG、振幅変調2.5メートル。」 会議の参加者は、誰一人として可能とは思っていなかったものを聞くことになったのであった:
ヨンカーズに設置されたマイクの前で、グラス一杯の水が注がれた。すると、グラスの水が注がれるような音がした。・・・紙がくしゃくしゃにされ、引き裂かれた。すると、山火事がパチパチいっているようにではなく、ちゃんと紙のような音に聞こえたのである。・・・スーザマーチがレコードで再生され、ピアノソロやギターの曲も演奏された。・・・ラジオの「ミュージックボックス」からはいまだかつて聞いたことがないような臨場感をもって、音楽が流れてきたのである。
常識から分かるように、アームストロングははるかに優れた無線技術を開発したのであった。しかし、彼の発明の当時、アームストロングはRCAのために働いていた。RCAは当時支配的であったAMラジオ市場において、支配的な企業であった。1935年までには、アメリカには何千ものラジオ局があったが、大都市のラジオ局は全て、一握りの大きなネットワークによって所有されているという状況にあった。
RCAの社長であり、アームストロングの友人でもあったデービット・サーノフは、AMラジオから雑音を取り除く方法を発見してくれないかと大変期待していた。そこで、アームストロングから「ラジオ」から雑音を取り除く装置ができたと聞かされたときも、サーノフは大変喜んでいた。しかし、アームストロングが彼の発明を披露した時、サーノフは快く思わなかった。
私は、アームストロングはAMラジオから雑音を取り除くフィルターのようなものを発明すると思っていた。彼が革命をはじめるだなんて思ってもみなかった――RCAと競争になるような新しい産業をはじめるとは。
アームストロングの発明はRCAのAMラジオ帝国を脅かすものであったので、RCAはFMラジオを握りつぶしてしまうためのキャンペーンを立ち上げた。FMラジオはより優れた技術であったかもしれないが、戦略家としてはサーノフの方が上だった。
主に技術的な観点からFMを推す力は、販売・特許・法律担当部門によってひねり出された、この企業の地位への脅威を抑圧する戦略を乗り越えることができなかった。というのも、FMが制約を受けずに発展することができたならば・・・ラジオ界における力関係の完全な再編成・・・そして、RCAがその地位を気付く基盤となった、注意深く規制がほどこされたAMシステムの崩壊をも、ゆくゆくはもたらす可能性があったからである。
当初、RCAはさらなる実験が必要だとして、社内に技術をとどめた。2年間もの実験の後、アームストロングが我慢しきれなくなった頃になると、RCAは政府とのコネを使って、FMラジオ一般の展開を引き延ばした。1936年には、RCAはFCCがFMを骨抜きにしてしまうような周波数の割り当て――主に、FMラジオの違うバンドへの割り当て――をするよう確保するという仕事のために、FCCの前委員長を雇った。当初、こうした工作は失敗した。しかし、アームストロングと国全体が第二次世界大戦に気を取られはじめると、RCAの工作は次第に成果をあげるようになっていった。戦争が集結すると間もなく、FCCはFMラジオを骨抜きにする、という明白な効果をあげるような方針を発表した。ローレンス・レッシングが記しているように、 大企業の利権によって小細工されたFCCの一連の決定という形で戦争直後にFMラジオが受けた一連のボディー・ブローは、その力の大きさと不正さという点で、ほとんど信じがたいほどであった。
当時RCAが大きく賭けていたテレビジョンのための帯域を開けるために、FMラジオ局は完全に新しいバンドに移動させられた。同時に、FMラジオ局の出力も削減された。このことはFMがある地方から他の地方へと番組を発信するためには使えなくなってしまったことを意味する。(この改革はAT&Tによって強く支持された。なぜならば、FM放送の中継局がなくなると、ラジオ局はAT&Tから有線の接続を買わなくてはいけなくなるからである。)こうして、FMラジオの広がりは抑えられた。少なくとも、一時的には。
アームストロングはRCAの工作に抵抗した。それに対し、RCAはアームストロングの特許を否認した。FMの技術を新興のテレビのためのスタンダードに組み込んだ後、RCAは特許が無効であると主張した――根拠もなく、そして特許が認められてから15年もの後のことである。RCA は特許にかかるロイヤリティーの支払いも拒否した。6年もの間、アームストロングは特許を守るために、費用のかかる法廷闘争を余儀なくされた。最終的には、ちょうど特許が切れた頃に、RCAはアームストロングの訴訟費用をもカバーできないくらいの低額での和解を申し入れた。敗北し、財も失った失意のアームストロングは、1954年に妻に向けた短い書き付けを残し、13階の窓から飛び下り、そのまま帰らぬ人となった。
法は、こういう風に動くこともある。これほど悲劇的で、そして英雄的なドラマに満ちてではないかもしれないが、時々、こういうふうに動くこともあるのである。昔から、政府と政府機関は牛耳られる対象であった。有力者の利益が法的あるいは技術的変化によっておびやかされる場合には、いっそう牛耳られる可能性は高まる。政府が有力者の利益を保護するよう、有力者が政府内で影響力を及ぼすことは頻繁にある。もちろん、こうした保護のレトリックは常に公のため、といった論調である。でも現実は少し違う。ある時代には岩のように頑丈なものであるが、しかし放っておけば他の時代には崩壊してしまうような考え方もこうした政治過程のとらえにくい腐敗によって、崩壊することなく維持されてしまう。RCAにはコーズビー夫妻にはないものがあった。それは、技術的変化の影響の息の根をとめるだけの権力である。
インターネットを一人で発明した人はいない。また、インターネットがいつ誕生したのか、いい日にちが見つかるわけでもない。しかし、かなりの短期間にインターネットはアメリカ人の日常生活の一部となった。Pew Internet and American Life Projectによれば、2002年にはアメリカ人の58%がインターネットへのアクセスがあった。これは2年前の49%から上昇している。この数字は、2004年には全国民の2/3を超える可能性もある。
インターネットが日常生活に溶け込むにつれて、変化がもたらされた。こうした変化の中には技術的なものもある――インターネットは通信を高速化し、情報収集のコストを下げた、などなど。しかし、こうした技術的な変化について語ることは本書の主眼ではない。もちろん、こうした技術的な変化も重要ではあるし、こうした点はよく理解されていない。ただ、こうした点はインターネットのスイッチを切ってしまったらなくなってしまうような性質のものである。それはインターネットを使わない人に対しては影響がない――少なくとも、直接的には。また、インターネットによる技術的変化はインターネットについての本で正面から扱われるべきものであるが、この本はインターネットについての本ではない。
では、何についての本かといえば、インターネット自体を超えてインターネットがもたらす影響についての本である。それは文化がどのように創り出されるかという点についての影響である。私の主張は、インターネットは重要であるが気付かれていない変化を引き起こした、というものである。この変化は、この国と同じくらいに古くからある伝統を劇的に変革するであろう。多くの人々はこの変化を認識したならば、それを拒絶するはずである。しかし多くの人々はインターネットが導入したこの変化に気付いてもいないのである。
この変化がいかなるものについては、商業的な文化と非商業的な文化を区別して、法がそれぞれをいかにして規制しているかについての見取り図を得ることで、その一端を垣間みることができる。ここで「商業的な文化」というのは、私たちの文化の中で、生み出され売られるもの、あるいは売られるために生み出されるものをいう。「非商業的な文化」はそれ以外である。老人たちが公園や街角に座り、子供たちをはじめ他の人たちに物語を聞かせていたとき、生み出されていたのは非商業的な文化である。ノア・ウェブスターが「リーダー」を出版した時、あるいはジョエル・バーローが詩を出版した時、生み出されていたのは商業的文化である。
有史以来、非商業的な文化は法によって規制されることがなかった。もちろん、語られる物語がわいせつなものであったり、あるいは歌われる歌が静穏を害するものであったりした場合には、法が介入する場合もあった。しかし、法がこうした形態の文化の創造・広がりについて、直接に関知することは決してなかった。法はこうした文化を「フリー」なものとして手をつけずにおいた。普通の個人が普通の方法で文化を分け合い、変形させる場――物語を語る場合、劇やテレビの場面を再演する場合、ファンクラブに参加する場合、音楽や音楽テープを分け合う場合――については、法は放っておいたのである。
法が焦点を合わせたのは、むしろ商業的な創造性であった。当初はわずかな範囲で、そして、のちにはかなり広範囲で、法は創作者に創作物についての排他的権利を与え、商業的な市場でその排他的権利を売ることができるようにすることによって、創作者のインセンティブを保護しようとしたのである。このことももちろん、創造性と文化の重要な部分であり、特にアメリカではますます重要な部分となってきている。しかし、これまでの私たちの伝統の中で、それが支配的であったというわけでは決してない。一部分に過ぎなかったのである。それは、コントロール下にある一部分であり、フリーな部分とのバランスの上に成り立つべきものであった。
しかし、今日ではこのフリーな部分とコントロール下にあるもの、というおおまかな分類は消し去られている。その消去の舞台を整えたのがインターネットであり、巨大メディアに押されて、法は今や広く影響を及ぼすこととなった。法はこれまで規制の対象としてこなかった膨大な量の文化と創造性をその管理下に引きよせた。こうした法の拡大によって、私たちの伝統の中ではじめて、個人が文化を創造し分け合う通常の方法にまで法の規制が及ぶこととなった。今までの長い間バランス――私たちの文化の中でフリーなもの用法と、私たちの文化の中で許可を得なければならない用法のバランス――を保ってきた技術は、消し去られてしまったのである。その結果、私たちは次第にフリーな文化の中にではなく、許可が必要な文化の中に身を置くことになったのである。
この変化は、商業的な創造性を保護する必要性の観点から正当化された。そして、実際にも、保護主義はまさにこの変化の動機そのものである。しかし、この変化を正当化しようとする保護主義は、以下に紹介するように、過去に法を規定してきたような、制限的で、バランスのとれたたぐいのものではない。芸術家を保護するための保護主義ではないのである。それは、特定のビジネスの形態を保護するための保護主義である。インターネットが商業的な文化と非商業的な文化双方における創造と分け合いのあり方を変化させる可能性を秘めていることに脅威を感じている企業が一致団結して、立法者に法を使って自分たちを保護してくれるように誘導したのである。それは、RCAとアームストロングの物語であり、コーズビー夫妻が夢見たことである。
というのも、インターネットは一地域をはるかに超える文化を創り育てるプロセスに多くの人が関わることを可能にするという点で、驚異的なまでの可能性を解き放つものであったからである。この力は文化を創り育てるための市場一般に変化をもたらし、そしてこの変化は既存のコンテンツ産業を脅かす。インターネットは20世紀にコンテンツを創り流通させていた産業にとって、AMラジオにとってのFMラジオであり、19世紀の鉄道産業にとってのトラックである:つまり、一つの時代の終焉のはじまり、あるいは少なくとも根本的な変革のはじまりなのである。デジタル技術がインターネットと結び付けられれば、文化を創り育てるためのより競争的で活気に満ちた市場を作り出すことが可能である。その市場はより広範囲でより多様なクリエイターを含むことができる。そうしたクリエイターたちは、より活き活きとして創造的なものを生み出し、流通させることができる。そして、いくつかの重要な要素が満たされれば、そうしたクリエイターたちは、このシステムでは、平均すると、今日クリエイターたちが稼いでいる以上に稼ぐことができるようになる――これはすべて、今日のRCAがこの競争から自らを守るために法を使わなければ、の話である。
しかし、以下詳しく論じてゆくように、それはまさに私たちの文化で起きてしまっていることなのである。20世紀はじめのラジオや19世紀の鉄道に相当する者たちは、文化を創り出すためのより効率的でより活力に満ちたこの新技術から、権力を使って法により身を守ろうとしている。彼らは、自分たちがインターネットによって作り替えられてしまう前にインターネットを作り替えてしまおうという作戦に成功しているのである。
多くの人にとっては、現状はこのようには見えないかもしれない。著作権とインターネットをめぐる戦いは、多くの人たちにとっては縁遠いものにみえる。この戦いに関心がある数少ない人たちにとっても、事態はより簡単な問題――「海賊行為」が許されるかどうか、そして「所有権」が保護されるかどうか――についてのものであるかのように見えている。インターネットの技術に対して遂行されている「戦争」――米国映画協会(MPAA)会長ジャック・バレンチが彼自身にとっての「対テロリスト戦争」と呼んでいるも――は、法の支配と所有権の尊重についての戦いであるとされている。そして多くの人は、この戦争でどちら側についたらいいのか判断するためには、所有権の保護に賛成か反対かを決めればよいのだと考えている。
もし、本当にそうであるなら、私もジャック・バレンチとコンテンツ産業の側につく。私とて、所有権というものは尊重すべきであり、そして特にバレンチ氏が「クリエイティブな所有権」とうまく呼んでいるものは重要であると考えている。私は「海賊行為」は間違っていると思うし、そして「海賊行為」はインターネット上であるか否かを問わず、法を適切に調整した上で、罰せられるべきであると考えている。
ただ、そうした単純な考えに留まっていることはより本質的な問題とより劇的な変化を隠してしまう。私が恐れていることは、私たちがこの変化に気付かない限り、インターネットの世界から「海賊」を追放するための戦争は同時に、私たちの伝統の当初から存在していた欠くことのできない価値を私たちの文化から放逐するものとなってしまうのではないか、ということである。
欠くことのできないこうした価値は、少なくとも私たちの国の最初の180年間に関しては、クリエイターたちに過去の上に自由に築き上げてゆく権利を保障し、クリエイターやイノベーターたちを国家的な、あるいは私的なコントロールから保護するという伝統を作り出した。憲法修正1条はクリエイターたちを国家のコントロールから守ってきた。そしてニール・ナタニエル教授が説得力をもって論じているように、きちんとバランスのとれた著作権法は、クリエイターたちを私的なコントロールから守ってきたのである。私たちの伝統はソビエトでもなければ、パトロンの伝統でもない。それは、クリエイターたちがその中で文化を育み、広げることができる広い停泊所を切り開く、という伝統だった。
しかし、インターネットに対する法の対応は、インターネット自身の技術の変化に結び付けてみたとき、大幅にアメリカでの創造性への実効的な規制を大幅に増加させた。私たちが身の回りにある文化を批評し、あるいはその上にまた何かを築き上げるためには、オリバー・トゥイストのように、まず許可を求めなくてはならなくなった。もちろん、しばしば許可は与えられる――ただ、批判的な者、あるいは独立の者に与えられることはあまりない。私たちは一種の文化的な貴族制のようなものを作り上げている。そこでは貴族階級に属する者は簡単にやっていけるが、その外にあるものにとってはそうではない。どんな形の貴族制も私たちの伝統とは相容れないもののはずであるのに。
これから語られる話はこの戦争についてのものである。それは日常生活において「技術の占める中心的地位」について語ろうというものではない。私は神というものを信じない。デジタルな神であっても、そうでない神であっても。また、特定の個人や集団を悪く描こうとするものでもない。私は悪魔というものも信じない。それが企業という悪魔であっても、そうでない悪魔であっても。また道徳的なおなはしでもない。特定の産業にたいしてのジハードの呼びかけでもない。
そうではなくて、インターネットによって引き起こされた、しかしインターネットを遥かに超える影響力を持つ、絶望的に破壊的な戦争を理解しようという試みである。そして、この戦いがいかなるものかを理解することによって、平和がどこにあるのかを位置づけようとする試みである。インターネットの技術を巡って現在繰り広げられている闘争を続けることには、何ら意味はない。この闘争が野放しに続けられることが許されるのなら、私たちの伝統と文化に大きな害がもたらされるだろう。私たちはこの戦争の根源を理解しなければいけない。そして、早く解決しなくてはいけない。
コーズビー夫妻の戦いのように、この戦争の一端は、「所有権」にかかわるものである。この戦争で問題となっている「所有権」はコーズビー夫妻のものほど分かりやすいものではないし、いまだ何ら罪のないニワトリが命を失うという事態には至っていない。しかし、この「所有権」をめぐる考えは多くの人にとって明白なものである。コーズビー夫妻にとって、農場の神聖さの主張が明白なものであったように。私たちは、コーズビー夫妻の立場にあるのである。私たちの多くは、今日「知的財産権」の所有者たちが主張する非常に強力な主張を、当たり前のものとして受け止める。私たちの多くは、そうした主張は明白なものであると考えるのである。したがって、私たちはコーズビー夫妻のように、新たな技術がこの所有権に干渉してきたときには、異議を申し立てる。インターネットの新たな技術が正当に主張できる「所有権」に対して「不法侵入」するものである、ということは、彼らにとって明白であったように、私たちにとっても明白なことである。法が介入し、この不法侵入を阻止すべきことについても、彼らにとって明白であったように、私たちにとっても明白である。
したがって、パソコンオタクや技術屋さんが彼らにとってのアームストロングやライト兄弟の技術を擁護するのを聞いても、私たちのほとんどは単に、あまり同情しない。常識に反する、とも思わない。不運なコーズビー夫妻の場合とは異なって、この戦争では常識は所有権を有しているものの側にあるのである。幸運なライト兄弟の場合とは異なって、インターネットは自らの側に革命を引き起こしてはいない。
私の望むところは、この常識を突き詰めてゆくことである。私は知的財産権というこの考え方の力、そしてより重要な点であるが、政策担当者や市民が批判的な思考を停止させてしまう力に、ますます驚かされている。私たちの歴史の中で、これほどまでに「文化」が「所有」されていたことはいまだかつてなかったはずである。それなのに、文化の用法をコントロールする権能の集中は今までになかったほど広く受け入れられている。
これは、何故なのだろうか?
それは、私たちがアイディアや文化に対する絶対的な所有権を有するということの価値と重要性を理解するに至ったからなのだろうか?あるいは、そうした絶対的な主張を退ける私たちの伝統が間違ったものであったということを発見したから、なのだろうか?
あるいは、アイディアや文化に対する絶対的な所有権という考え方が今日のRCAを益し、私たちの制度に合致するからなのだろうか?
私たちのフリーな文化という伝統からの劇的な転換は、奴隷制との血なまぐさい戦争や、徐々に進められている不平等への対処と同様に、アメリカが過去の過ちを正している場面の一つなのだろうか?あるいはこの急激な転換は、政治的システムが少数の強力な利益にとらえられてしまったまた一つの例なのだろうか?
この問題については常識が極端な方向にいってしまうのは、本当にこうした極端な方向が常識的だからなのだろうか?あるいは、こうした極端な方向に常識が沈黙するのは、アームストロング対RCAがそうであったように、より強い側が自らの見解をより影響力のある見方となるようにした結果なのだろうか?
私は別に、謎めかそうとしているつもりではない。私自身の考えは、はっきりしている。私は、コーズビー夫妻の極端な主張が常識に反するというのは正しいと思う。「知的財産権」についてなされている極端な主張についても、常識に反するとするのが正しいと思う。法が今日要求していることは、保安官が飛行機を不法侵入で捕まえるのほど、おかしなことである。しかし、このおかしさがもたらす結末は、一層深刻なものになるであろう。
いま現在続いている抗争は二つの概念を中心として繰り広げられている。それは「海賊行為」と「所有権」である。この本の次の2つのパートでの目的は、この二つの概念を探究することである。
この探求に際して私の用いる方法は、学者としては通常の方法ではない。私は、無名なフランスの思想家を脚注で引くような、複雑な議論に読者を巻き込みたくない――たとえそれが学者という変わった人種にとって自然なことであるにしても。そうではなくて、こうした単純に見える概念がよりよく理解できるような背景を提供するための話で各パートをはじめたいと思う。
二つのセクションがこの本の中心的な主張を構成している。その主張とは、インターネットは確かに何か素晴らしくて新しいもの生み出したが、こうした「何か新しいもの」に対処するよう巨大メディアから求められた私たちの政府は、何かとても古くからあるものを破壊しているということである。私たちは、インターネットが可能にするかもしれない変化を理解するのではなく、あるいは、時間をかけてどのような対応をしたら一番良いのかを「常識」が解決してくれるのかを待つのでもなく、この変化によって最も脅かされる者がその力を利用して法を――そしてより重要な点としては、私たちがどういう人たちであるのかを規定してきた何か根本的なものを――変えるのを許しているのである。
私の考えるところによれば、私たちがこうしたことを許しているのはそれが正しいからではない。私たちのほとんどがこうした変化を本当に信じているからでもない。それを許しているのは、利益をもっとも脅かされているのが、情けなくなるほど欠陥を抱え込んだ立法過程において最も有力なプレーヤーだからである。この本はこうした形の腐敗がもたらす、また一つの結末についての物語である。それは、私たちのほとんどがいまだ気付いていない結末である。
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